(今回のお話のもとになるネガフィルムです。36年前のネガフィルム、ここから記憶を呼び起こして。)
さてさて。ここらで一旦小休止します。
今回は回想録を書きます。今回は昔の記憶、記録類も文字にして書き記して旅記録の棚卸しみたいなことも含めようと思って書いているので、宜しくお付き合いくださいませ。
==== Back to 36years ago ===
1989年8月24日。
自分はこの日、浜頓別から網走方面に車を走らせていました。
大学の同級生2人と3人で半分ノープランの初の北海道車旅行の最中で、小樽上陸後札幌、オロロンラインを北上して稚内、宗谷岬、浜頓別の宿(北オホーツク荘)までは事前に予約手配をして、そのあとはさっくり予定だけ決めて、という旅をしていました。
大学に入って1年目のバイト代は自動車免許代、2年目のバイト代は車を入手する資金に消え、3年目のバイト代はこの旅行にあてて、みたいな感じだったかな。小樽上陸後同行者が駅前で置き引きにあってしまい北海道上陸後いきなり無一文(本当!)、最初の行先はお金の下ろせる銀行ATM探し(当時はコンビニATMなんてなかったし提携先も今とは違って限られていて、確か北海道銀行の支店を探しながら車を走らせるのが最初のミッションだったと記憶している)なんていうトンでもストーリーから始まった旅で。
(小樽駅前の交番で調書を取られ全員指紋まで取りました、指紋を警察に取られたのは生まれて初めて、最初で最後でありますように(謎))
余談は良いとして。その日自分たち3人は宿を出た後車を走らせ国道238号を南に下り始めていました。
程なくして枝幸か興部だったかの跨線橋に差し掛かった時(どこだったかは記憶があいまい、ストビューで確認しようとしたけど断念)、我々の方に手を振って来る二人の姿が見えて。
止まってみたら、女性と小さな女の子。子連れのヒッチハイカー。
リクエストが網走方面へ、という事だったので自分たちもそっちの行先だったので断る理由もないので乗せることにしました。その日からノープランのつもりだったんだけど、それ以上の展開?になってしまってました。大学生3人と既婚の女性と幼い子の5人乗りになって再び車(僕の車)は走り始めることになってしまいました。
今思えば凄いことをしてしまったのかも知れないと思ってる。人生そんなことは初めてのことだったし。今ならヒッチは乗せるのにも(いろいろな意味で)かなり勇気のいる行為でこのことがその後の自分の旅人生に大きく影響してしまう事も知らずに、、、、(下記に書きます)
車は網走方面に向かって淡々と走り、サロマ湖、能取岬、網走監獄あたりを観光して。当日はゲストの宿がまだ決まっていなかったので観光も端折って走ったかな。
網走で宿の手配をしたいという事で市街地で少し車を停め、しばらく電話しているのを待って、「宿取れました」の返事だったか、どこなのかと聞いたら
「岩尾別のユースホステル」
という返事。
(岩尾別ってどこだった?、ウトロの更に奥!)
手前のYHとか当時いっぱいあったけどそこではなくて。相手も出来るだけ遠くに行こうとしたのか、それとも本当に手前の宿がダメだったのかは知らんけど<今思えば。自分たちもウトロあたりのライダーハウスで泊まれればいいや、と思っていたのでそのままみんなで、という事で都合ヒッチハイクの親子を300キロも乗せることになってしまいました。
(これはその年の写真がななったのでその翌年行った時の写真。1990-9-4撮影。現在と変わっているのは「停車場」の看板、灯油タンク、オホーツク海に近い~の看板と後少々くらい。)
さてここまで書いて、昼飯のことがないのにお気づきの方は居ますかな。観光だけで走ってきたので午後まで何も食べておらず、どこで昼ご飯を食べようかという事で自分が「北浜駅が喫茶店になっているのでご飯が食べられるのでそこまで行こう」ということで入ったのが北浜の「停車場」でした。
当時まだ旅の記録とか取っていなかったので詳しい記録が無く、確か名物のラーメンをみんな食べて、写真の撮り合いっこをして、300キロ走って道中まともな一服をしたのが北浜駅だった、という記憶があります。何でそれ(駅舎が喫茶店)を知っていたのかなぁ、多分鉄道雑誌か旅行専門誌だったかで事前知識があったのはここだけだったのかな、たしか。ネットとか情報が簡単に手に入る時代ではなかったのでそんな知識程度しかなかったのだろうかと。
(同じくこの記事の翌年の1990-9-4撮影の北浜駅舎内。今でもこの光景はあまり変わらないので、JR様のご厚意に感謝、という所でしょうか。いつまで続けられるかはわからないけど?)
(同じく1990-9-4撮影の北浜駅。その頃のキハ54-500が今だ現役で走っている事に留意(^^;)
北浜駅って一度来てみたかったんですよね、車なら自由も効くし、今回の事にかかわらす来ることは決めていたので。この年(89年)はちゃんとしたカメラ装備持っていなかったので翌年の写真を引っ張り出してきましたが、昔も今もあまり変わっていないのが全ページの写真と比較して頂ければお分かりいただけると思います。変わったのが「オホーツク海に一番近い駅」の看板と幌馬車の車輪の位置位かな。
ここで小休止は自分の演出だったのですわ、半分(笑)。
このあと3回位は来たのかな。知らんうちに展望台とか出来てしまってすっかり観光地?になってしまいましたが、あんまり変わってはいないのでよしとしましょうか(意味不)。
車を走らせ、ウトロまで来て。最終のバスが行ってしまったのか、宿の迎えが合わなかったのか、なぜか結局5人乗ったままウトロから坂を上がって五湖への分岐から坂を下り(当時はまだ一部ダートだったような気がする)、岩尾別ユースの前まで行ってそこでミッションを終えたというか楽しい1日が終わった、という記憶があります。その頃はまだ今時の個人情報云々の話なんかなくて、みなさん住所交換を男女関係なくやってて、自分も写真送るんで、とかいってお互いの住所交換とかやって一日が終わった、我々3人はウトロまで引き上げてライダーハウス(グリーンハウス)で泊まった(車なのにライダーハウスに泊まったw)、という1日でした。
======
上の出来事は時間にすれば7時間とか8時間くらいの話だったのですが、この日の出来事はそのあと旅人生に大きく影響してしまいます。
まず。。。。。そんな人を乗せたという事で自由な旅やってる人というかそんな旅行スタイルがうらやましくなってしまいましたね。その年の旅は男3人でその後も道内いろいろな所を回ったのですが、かなり走って端折ったのと、やはり同行者がずっと同じの長期間旅行は無理があると悟ってそのあとは(今の嫁様と知り合うまでは)ほぼ一人旅のヒトになってしまったこと。それによっていろんな人と知り合えて結果今の自分があるという事。これは紛れもない事実であります。
送って行った最終目的地がユースだったというのもありますか。当時はまだYHというものがあるというのは知っていたけれど、会員証を作って旅歩きというステップには至ってなかった頃。この旅行のあと翌春には当時名古屋伏見にあった愛知県青年会館に会員証作りに行って、一人旅泊まり歩きを始めたこと(夜行に乗って宿に泊まらず、というスタイルを減らしていったこと)、などなど。
(翌年(1990年)春にはYHの会員証を作ってまずは九州、夏には北海道一周をYHを使ってやってしまう。とほ宿等はそのあと。)
まあカッコよく言っちゃうと、あの日あの時自分が車のブレーキをあそこで踏まなければその後の旅人生のイロイロな事は起こりえなかったという話なんです。なので書き記しておきたかった、ということです。
かの方とはその後10年以上年賀状のやり取りとか続いたのかな。今の嫁さまにもそんなことがあって、という事は話しましたが、許容はされている(笑)。自分舘が結婚してなんか小さな贈り物は送られてきた後にもうおしまい、ということで交流は途絶えてしまいましたが。今何されているんでしょうかね>お二人。もう36年も経っているので改めて何とかという話はこの場限りにしておきますが、人生ターニングポイントになったという感謝の意を込めて書き記しておきたいと思います。
======
回想録はここまで。
翌年とその翌年絡みの話もこの界隈にはあるのですが、それはこの後の記事に絡めて書きたいと思います。3年連続で立ち寄ったのでまだ話があるの(笑)。
で。まだ空港から30キロちょっとしか走っていない!(笑) とりあえずここでミッション2つかクリアかな。
このあと自分のミッションはまだまだあります。
旅に戻ります。
つづく。