PART4・18きっぷでロングラン乗りつぶし【20年前の話】、の巻


またまた過去帳の話です。

1989年12月28日の話です。え〜っと、何歳の話でしたっけ?(笑) 

写真は飯田線天竜峡。今は見られない飯田線カラー+するがシャトル色の組み合わせ。

そのときは、まだバイタリティーがありました。
夜行何日連続とか平気でした(笑)

時刻表をぺらぺらめくって、今回は乗りつぶし何キロ制覇しようとか、18切符の費用対効果を確かめつつ戦略を練ったモノです。

このとき、ワタシはこういうルートを取りました。

【自宅→名古屋→塩尻→飯田線前線走破→塩尻から名古屋→大阪(ML九州)→別府→大分→あそBOYに乗車→博多から山陰臨時夜行(ビッグスキー大山号)で宍道→木次線で山越え→福塩線→新大阪→臨時夜行で紀伊半島一周→自宅】

なんていう横着な事をやってしまいました。

#いまでは夜行快速、定期夜行快速などの廃止により、こうしたつなぎをすることは不可能になっています。もっとも移動だけであれば会員制格安夜行バスの台頭により18きっぷははその存在意義を失いつつあるというのも現実なのですが。

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さて、旅の行程に入りましょう

【関西線始発9920M→名古屋→中央線723M、827M→塩尻9156M→辰野236M→天竜峡632M→豊橋】

飯田線を全然走破するのは、に上るのは朝のおきまりの列車・・・というのは変わらないパターンです。
が、このときはつなぎを第一に考え、南下乗り継ぎコースにしました。
このとき関西線、中津川から北、は165系でした。関西線の一番冷房が涼しかった、暖房が心地よかった時代です(笑)
この頃の時刻表は9000番台の列車番号がいっぱいありました。取りあえず運行してみて、あかんかったら運転取りやめ、という建前でした。(いわゆる国鉄時代の末期に「α列車」と呼ばれ、αマークが時刻表にいっぱいあった次代の名残ですね。

一番目の写真は天竜峡駅での一こまです。
またまた押し入れのネガから起こしたのですが、最初ネガにデータをつけていなくって。たしか本長篠かなぁ、と思ったのですが、グーグルの航空写真や地図を見てもどうも違う。
でもハッと思ったんですね、写真に「キロポスト」が写し込んである。
116.3キロ。時刻表で見て、この写真は天竜峡で撮った、というのがわかった次第です(笑)

曖昧な記憶のが一気によみがえってきました。
よく考えてみれば旅ノートをつけていたので、列車番号なども克明に記録してありました(笑)

【豊橋1636→蒲郡1655/1704 1153M新快速→大垣543M→米原3699M新快速→京都2015/2122(9231 ふるさとライナー九州)】

豊橋からは東海道線を乗り継いで、今日の宿にする博多行き夜行列車につなぎました。
その頃、まだ311系が走り始めたのですが編成数が足りなくて新快速は蒲郡止まりでした。
新快速が311系で遂に120Km/hの運転を開始、でJRが名鉄に対して反撃を開始し始めた頃でした。そうすると、311系ももう20年以上走っているわけです。時代はかなり流れているのかな。

1989.12.29 大分駅。457系(でよかったのかな)

【(9231)→小倉525M→別府(駅前高等温泉で一風呂)2327M→大分2736D→三重町2740D→豊後竹田756D→宮地 まで】

この頃、大阪から九州方面の夜行は寝台特急か、阪急・西鉄バスの「ムーンライト」しかなかった時代です。
夜行バスがドリーム号、東北急行バスがその代名詞だった時代です。まだシュプール号がバンバンだった時代です。懐かしいですね(笑)

そのとき乗ったのは、オハ12 16 と記録があります。
12系はもうSLきたびわことか、やまぐち号くらいでしか乗れませんね。もう12系客車もほぼ過去帳時代なのです、実質的に。

小倉で日豊線に乗り継ぎ、別府までいって「駅前高等温泉」に入ります。
駅前で温泉に入れるというのは貴重だったため(現在みたいなクルマがあるわけではなかったため)迷わずストップオーバーで汗を流しました。

#ネットで調べて見ましたが、現在も100/300円で入れるみたい・・・・ですね。

2枚目の写真は大分駅での光景です。
いまはどうか知りませんが、当時近郊電車は私鉄に習って頻発運転での乗客獲得に力を入れ始めた頃でした。【写真】のように「タウンシャトル」とか愛称をつけたり、ヘッドマークをつけたりとか。車両更新もままらない頃でしたから、今考えればこのようなアピールが精一杯だったのかも知れません。
(写真をよく見えればわかりますが、サボ(行き先板)もここからどこに行って、折り返してここまで、なんていう運用上の都合で挿した、というモノが当たり前のようにさしてありました。どっちに行くかわからない人にとっては不親切きわまりない表示とも思われかねない表示なんでしょうが(笑)
写真の急行型電車は数年前に姿を消したそうです。けど関西線や東海管内ではすでに姿を消していましたので、結構長い間使われていたはずです<九州管内では。ちなみにまだ北陸線では現役で走っているらしいですが、国鉄継承の急行型電車が姿を消すのはそう遠くない将来のはずです。記録に収めて乗りつぶししておいた方が良さそうですね(^^)

大分からは・・・・小刻みに列車を乗り継いでいきます。
キハ40、58、52 と乗り継いでいきます。きは58は高山線の富山口が最後、キハ52も大糸線で最後、国鉄から引き継いだ気動車でいま乗れるのは系列からすると指折り数えて10あったら足りるのかなぁ、と計算してしまうくらい少なくなりました・・・よね(笑)

1989.12.19 宮地駅。キハ52と8620「あそBOY」

【宮地1433 8710 あそBOY→熊本1716/1944 9836 米子行きビックスキー大山号→】

このとき・・・・各種行程をつないで最大効用を求めよう、という本能が備わっていたのかも知れません。
この日のメインイベントは当時復活した「あそBOY」に乗ることでした。

取ったのは1号車1A とかいう後方展望がぶり付き。上りで取るというのも確実に乗りたいという本能からだったのかな(笑)
けど年末の上り列車・・・ということで気合い入れて指定券取ったのにガラガラでした。鉄ちゃんしか乗っていなかった、と記録にあります(^^)


#この後ハチロクは一端引退してしまうわけですが、まさかその後復活(人吉で)するとは思っても見ませんでした・・・。

3枚目の写真は上り始発駅の宮地駅での光景です。キハ52にあそBOYですから、もう見られない光景ですね。

熊本からは・・・シュプール号と同じ位置づけで一時期運転されていた「ビッグスキー大山号」なんていう列車の人になりました。
当時まだスキーはトレンドのレジャーでしたし、JRもこぞってシュプール号を運転していました私はスキーはしませんが、あの頃の一大スキーブームはいったい何だったのかな・・・と思ってしまいます、はい(笑)。ブーム、というものはそういうモノなのかな・・・とも思ったり。 


熊本駅で何をするわけでもなく2時間半つぶして、ビックスキー大山号の人となります。
そのときの編成、ED76 68に12系5両、14系(寝台)が2両。てっきり座席は14系だったと思っていたのにだまされた〜?!と思ったモノです。しかも電源車が故障、
したり、車掌さんが列車のこと把握していなかったり(笑)(と、記録が残ってます(^^;)

☆おまけ

当時から鉄道パンフをコレクションするのがライフワークとなっていました。
いま暮らしている家がマンションですので紙媒体はスキャンデータとしてデジタルデータにしてしまいましたが・・・・・

押し入れのCD-ROMの中に、こんなデータが残ってました(^^;

ビッグスキー大山号のチラシ。 あそBOYのチラシ。

まさか20年以上たって使う事はないと思ってませんでしたし、登用したタレント(酒井法子女史)がその後皆様御周知の事実となってしまった、という事実は残念でなりません。詳しくはコメントしませんが・・・・。


(以下、後編に続く)


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