PART4・急行「奥飛騨」号



以下の話は・・・・・記事を書く20年も前の話です。
1990年8月6日の話です。
そのときは・・・う〜ん、何歳だったでしょう、ちょっとヒミツですね(笑)

#ああ、この日はうちのヨメさんの誕生日でもあったりします、この日、嫁さんはまだ「女子高生」でしたね(爆

で、もとい。
確かそのときはまだ「大学生」でした。これは間違いないです。その頃は大学生になって、アルバイトをしてそろそろお金も自分で少しですが稼ぐようになり、ちょっとずつ遠出をするようになってきた頃でした。

大学に入って1年目は貯金。
(ハンバーガー屋で、時給はまだ500円だった時代です!(笑))
バイトをしてまず免許を取りました。
これはセオリーコース。
次に一眼レフのセットを買いました。
当時まだレンズ内モーターの信頼性がなくてペンタックスをカメラ屋に勧められそのセットを担いで写真に取り組み始めた頃でした。
(まだリバーサルなんかにはハマる事はなかったです。お金もなかったし・・・)

あと・・・・まだ一緒に行ってくれるカノジョもいなくて、さすらいの旅のお供はカメラキットだったのさ、という年頃でした(笑)

#その後20年たち、家庭も持ち、子供にも恵まれ、マンションを買い、ごくごく平凡な家庭生活をしています(基盤はもろいですが(爆)。若いコロの出会いへの危惧感は杞憂、だったということか(謎

【館長、ヒトリでユーロピアでアルペンルート縦断をする】


(写真は1989.08.06、名古屋駅11番線。実は乗車位置表示が上についた以外は、ほとんどこの光景は変わっていないのです、近い将来、名古屋駅は実は化石級の産業遺産になる素質十分ありです(爆))

身軽にひとりでお出かけと言うことで、このときは「ルート周遊券」を買いました(話は後述)。

列車もあれこれ考えて・・・・周遊券では区域内まで特急は追加料金だったので一ひねり、当時まだ走っていたユーロライナー+色だけかえた「ユーロピア」で編成された臨時「急行奥飛騨号」で出かけることにしました。自由席ついているし、これで高山まで行って、富山まで普通でいって、地鉄で立山、駅近くに当時あったYH(YH杉田)に投宿して、朝一番で撮影しながらアルペンルート縦断、と考えたのです。

当時の写真を上に貼りました、行灯マークも用意されなかなかの待遇だったようです。もっともこの直前に投入されたワイドビュー(ひだ)の補完の意味合いもありました。
けどガラガラだった覚えがあります(笑)
いまでこそ列車はごく一部を除いて移動手段、しかもいかに早く快適に移動するか、というのが第一目的ですが、あの頃はまだ移動を楽しむ、なんていうゆとりがあったと思います。もうこの編成も廃車で組まれることもない光景ですが・・・・。

【専用機関車だった】

ユーロライナーには「専用機関車」というのがありました。
この日もキレイな編成美の「奥飛騨号」でした。

専用塗装車は何台か塗り替えられていますが、専用(優先運用)としたのはJTではユーロが最初、という話だったようです。
この日はDD51の1037号でした。
ちゃんとヘッドマークがつけられるようになっていますネ。

#ちなみに一番見かけたのは、ちくまにタンカーに何でも常時引いていた?EF64-35と66号でしたが。

いま専用(というか優先)である、というのはトワイライトのEF81、先日替わった北斗星・カシオペアのEF500、くらいでしょうか(貨物の高速貨物Aはあれじゃないといかん、というのは別)趣味記録的には結構貴重な部類にはいるのではないかと思います。

けどユーロライナーとかユーロピアとか、よくハンドル訓練とかにも使われていたと記憶しています。客扱いもないのにハンドル訓練とかでよく走っていたのを見かけました。引っ張るモノがありませんからコレを使わないと従業員教習も出来ないのも実情でしたからね・・・・(笑)

いま機関車を使うといったら、DE10が工臨を引く(しかもこの前見ましたが、キヤ97の無動力を牽いている=必要なところまでを牽いてきて、自力で走行した方が性能的にいいところはキヤ単独で走っていくのだから機関車も哀れな存在なものです。将来的にはEC、DCの運転士だけの時代が来てしまうのでしょうね。。。

【まぼろしの光景は続く(笑)】

列車に乗り込み、その頃は写真のロケハンを兼ねていこうと思ったのでどこで写真を撮っていこうか、と考えつつ揺られてました。
岐阜では今ではもう見られない光景も撮ってました。スキャンをしながら「ああ、そういえばこの光景は絶対撮れないわ」、と思いつつネガを取り込んでました。
岐阜では機回しが必要でしたのでかなり時間があったような。ワイドビューでさえ高速道路の驚異におびえてダイヤカツカツなのに、今では考えられないゆったりさです。

撮ったのは「奥飛騨」とボンネット「しらさぎ」の並びです。
(下の写真。)
気がつけばもう485系ボンネットなんて過去帳なんですよね。485系がもう絶滅危惧種?になりつつあるご時世です。
普段から記録写真は撮っておきましょう・・・(笑)

写真は高架に上がる前の岐阜駅。 投入後最初の夏のキハ85「ひだ」。坂祝で通過待ち中。


#20年たってもこのレベルの写真を起こせるのですから 銀塩写真はたいしたものです。取り込みデータはかなり青に傾いていましたがこれはスキャナとの相性の問題でしょう。多少退色は補いきれない部分もありましたが、くどくない程度に補正をすると左のような写真まで持って行くことが出来ました。

☆余談ですがこのあと数年後からデジカメに移行してしまいましたが、20年たってデータを完全に呼び起こせるかちょっと不安。2重バックアップは取っていますが・・・。


ワイドビューシリーズはすでに20年が経過】


このとき、すでに高山線はキハ85が投入されていました(写真上右)。
華やかな時代の始まり。たしか高山本線のキャンペーンが「メタモルフォーゼ高山線」とかいって大々的にキャンペーンが組まれたのを覚えています。バブリーな時代でしたし、広告も結構大々的だったと思います。

けど思えばもうそんな時代から20年も経過しているのです。気動車の機関はすでにカミンズオンリーですし(たしか)、20年間たいしたトラブルもなくカミンズエンジンで幹線スジから末端までぶっ飛ばしている時代です。
この年になって思う、時代の流れはあっという間。記録はちゃんと取っておきましょう・・・・ね(笑)

【過去帳のきっぷ、ルート周遊券】

このとき使ったのは、もう覚えている人はだいぶ少ないと思います、国鉄時代からの継承品「ルート周遊券503」でした。
ルート券は数種類ありましたが、いまの「立山黒部アルペンきっぷ」(昔は立山黒部アルペンレジャーきっぷ、と言った時代もあった)の前身です。

写真のナンバリングを見て欲しいのですが、ナマ券でメルサ旅行センターにて、JRになってから3年で僅か16枚しか出ていない!切符でした。

価格は学割で158600円。
高山線でも北陸線でも同価格、という設定でした。
いまのアルペン切符には学割はありませんから結構値打ちに行かさせてもらいました。
なにせ有効期間が発売日から1ヶ月有効(いまのトクトクきっぷのように使用開始日ではないことに留意。)なんていう太っ腹なきっぷ。ルート内は順に使用、という制限はありますが(いまの企画乗車券は域内フリー、経路外途中下車は例外以外不可だったはず)帰りに途中下車しても良かったはずでした。(他の周遊券も同様)

しかし今思えば売れてなかったんだろな・・・と想像します。
(周遊券といいつつ、JRや国鉄の窓口では買えなくて、JR券の取り扱いのある旅行代理店の店頭で買うしかなかったのです、ルート券に関しては。なのでメルサ旅行センターで買ったのです、はい)。

アルペンルートそのものがパッケージ向けですし(個人では高価で行きにくい)、個人で企画乗車券と宿泊を組んでもどうでしょう、35000円くらいはかかってしまうのではないでしょうか。
このときも帰りの松本からだけ特急にした覚えがあります。YHを使ってやっとびんぼーずにふさわしい旅になったと記憶しています。
この後ルート券は整理が行われ廃止、周遊券制度も「周遊きっぷ」と制度が変わり、かなり使いにくいモノになってしまいました。

ここに出てきたモノはほとんどが過去帳のモノばかりです。
(形として残っているモノは、名古屋駅の光景とキハ85くらいですネ)

こうして書き起こしていると多感な頃に旅を一つずつつくって記録として残しておいてよかったなぁ、とつくづく感じる次第です。
皆さんも旅の記録はくだらないことと思っても残しておきましょうね・・・・(^^)

(2010.09.06記)


鉄道趣味のトップへ トップメニュー