「SCENE 3」−野鉄とともにいた人たち




最期のころは、撮影に非常にうるさく鉄道敷地内での撮影は
原則禁止という状態だったのですが、その規制になる前の
約1年前に撮った車内スナップです。その頃はまだ補助打ち切りの
噂が出ていた頃で、乗り鉄撮り鉄もほとんどいなくて、お休みの日の
昼下がりがこういう光景だった、という記録の1コマです・・・。[日方]




望遠で切り取ってみた写真です。紀伊野上駅から八幡馬場駅を
発車する電車を撮ってみた光景です。よれよれのレール、老いた電車と架線柱、
すべてが一昔前。けど生きているのは今の人間(ひと)。郷愁は時として
人の心にある時計を過去へと誘ってくれますが、切り取った光景は
やはりいまの光景だったのでした・・・・・[紀伊野上]



ローカル線の主役はいつも決まっています。足のない学生、そして老人。
時代の流れなのだから仕方がありません。開発の波に乗り遅れ、日々の足にも
なれなかった鉄路は、そうやって消えていく運命になっているのでしょう。
人は時代を作ることは出来ますが、時代とともに変わり続けていかなければ
いけない宿命も持っているのです。すべては、郷愁というコトバに置き換えられて
いくのかな・・・[左から連絡口、右2点は日方停車中/画像処理でモノクロ]



1日片道24本。おおよそ昼間45〜50分間隔で走っていた電車ですから、
通り過ぎてしまえば線路端ではこういう光景があったのでした・・・・・。
ところでこのごろうじんにの前と後ろにあったのは、立てるはずだったコンクリートの
架線柱。ことごとく投資を中途半端にしてきたという、なんとも云いようのない
画像の記録でもあったりします。1ページ目でムダにした水間の電車の話も
有名な話ですが、このムダに打ち捨てられたポールたちも(ファンの間では)また
有名な話だったりしたのでした・・・・。


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